幸せを絵に描いたような家族の暮らしが断ち切られてしまうとは、誰が想像できただろうか。
転機は1996年春に「総務管理課文書係」に配属されたことだった。
職員の給料から市内の施設の運営まで、市政のルールは「条例」や「規則」で決まっている。
それぞれに担当課はあるが、ともに条例・規則の文案をつくり、市議会に提出するのが文書係の主な仕事だ。
行政文書に誤りやあいまいな点があってはならないが、担当課は条文の書き方には詳しくない。
文書係が担う役割は大きかった。
最初の不調は1999年4月の胃潰瘍だった。
心労が重なったものとみられ、2週間の病気休暇をとった。
その後も医師からはさらなる静養を勧められたが、浩さんは「出勤する」と言い張った。
「お父さん、命と仕事とどっちが大事なの?」
美智子さんは必死で止めたが、浩さんは首を横に振った。
「あの仕事の山を思い出すと家でゆっくりと寝てられない。余計ストレスがたまる。
すまん。仕事に行かせてくれ」
無理がたたり、半年後の1999年11月に胃潰瘍が再発した。
それでも浩さんは働き続けた。
2000年3月の議会に提出する条例案は、山のようにあった。
夜の8時、9時ごろまで役所で働き、帰宅後も1時間ほど休んでから深夜1時ごろまで書斎にこもった。
翌朝は5時起床。一日の睡眠は4時間ほどだった。
異状は美智子さんの目にも明らかだった。
顔色がめっきり悪くなった。
温厚な人柄は影を潜め、イライラする機会が増えた。
「夢の中でも寝言で仕事の話をしていました。電話の応対だったり、
条例のことを説明していたり。はっきりとした大きな声でした」(美智子さん)
忙しい父を支えるため、マー君もけなげにがんばった。
休日になると「お父さんは寝ているから」と言い、自分から外に遊びに行った。
幼稚園で発表会があった日、市役所勤めのほかのお父さんは見に来たのに、浩さんは来られなかった。
そのときも文句一つ言わなかった。
家族一丸となって苦しい時期を乗り切ろうとしたが、2000年3月の議会の直前になって、
疲れ切った浩さんをさらなるアクシデントが襲った。
条例案の一部にミスが発覚したのだ。
部下が担当した部分だったが、浩さんは大きな責任を感じた。
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