「いじめられているBがどんなに苦しんでいるかわからないのか! きみたちは、思いやりがないのか!」
という叫び声は、生徒の心には届かない。
みな、Bが苦しんでいることがわかっていじめているのである。
Bが苦しんでいるから、それがおもしろいからいじめているのである。
彼らは、「自分がされたくないことを他人にするな」と真顔でお説教する。
しかし、自分がされたくないことでも、他人はされたいかもしれず、自分がされたいことでも、
他人はされたくないかもしれないじゃないか!
相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。
いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の「楽しさ」も考えねばならない。
暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えねばならない。
わが子が誘拐されて殺害された者、妻を目の前で強姦されたあげく殺された者が、
相手の気持ちを「考える」とはどういうことでしょうか?
ただただ憎悪や後悔で充たされ、もはや考えることはできないはず。
そこを無理に考えようとすれば、反吐が出てきてまともな精神状態を保てないはず。
相手の気持ちを考えろとは、これほど過酷な要求なのです。
しかし、こう語る人は ―― 怠惰にも狡(ずる)いことに ―― こういう場面を想定してはいない。
ここでは「相手」という言葉が、はじめから極度に限定した意味を担わされております。
相手一般の気持ちではなく、「弱者」の気持ちを斟酌(しんしゃく)しろと言いたいのです。
しかし、これで問題が収まったわけではない。
弱者とは何か容易に決まらないはずであるのに、すでに決まったつもりになって、
いやたとえ決まったとしても、その弱者の気持ちが「わかる」ことがたいへんな困難であるのに、
そこをウッチャッテあたかも自然なことであるかのように「相手の気持ちを考えろ」とトウトウと
お説教する。
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