アイドルの国実百合さんが今月15日、33年ぶりにアイドルイベントのステージに立つ。事務所の先輩、河合奈保子、石川秀美、芳本美代子に続くホープとして1988年にシングル『青い制服』でデビュー。
多くの歌番組、バラエティー、CMに出演したが、わずか3年で芸能界を引退した。もともと病弱だった彼女は、忙しさで疲弊して腎盂炎を発症。病の悪化で芸能活動を続けられなくなった。
国実さんは高2だった87年、河合、石川らを輩出した大手事務所の芸映と日本コロムビアが主催した「ザ・オーディション・ボーイズ・アンド・ガールズ」でグランプリを獲得した。
翌88年にレコードデビュー。同期にはWinK、西田ひかる、藤谷美紀、中山忍、高岡早紀らがいた。
「松田聖子さんに憧れて親に内緒で応募しました。でも、デビューが決まってからは緊張と忙しさの毎日でした。記憶もほとんどなくて、アイドルになれたうれしさを噛みしめる暇さえありませんでした。
子どもの頃から人見知りで、デビューしてからもスタジオでみんなの輪に入ることもできませんでした。いつもポツンと1人ぼっち。
そんな私を先輩の芳本美代子さんがいつも励ましてくださり、箱根にドライブに連れて行ってもらったりしました。雑誌の水着グラビアでもご一緒して、本当のお姉さんみたいな存在でした」
だが、91年に芸能界を引退。リリースしたシングル12曲を残し、きらびやかなステージを後にした。
「小さい頃から体調を崩しやすくよく入院していました。デビューしてからも仕事の合間に入院することもありました。最後は活動をお休みすることになり、そのまま事務所を辞めました」
病気が回復してからはエステティシャンも経験し、カウンセラーとしても活動した。その後、2児の母親として子育てに専念。長男は27歳、長女は22歳になった。
「娘が20歳を過ぎた頃、コロナの自粛期間などもあり、自分のことを振り返ると同時にこの先のことも考える時間がありました。そこで押し入れにしまっていたアイドル時代のグッズやアルバムを引っ張り出し、
記憶を取り戻す時間を作りました。アイドルだったあの頃、あんなに憧れていた世界だったのに入った瞬間から記憶がなくなってしまうくらいの過去です。
その時期を振り返っていると、私のために必死になって支えてくださったたくさんの方々の顔が浮かびました。そして、『あの頃の忘れ物を取りに帰りたい』と思うようになりました。
当時とは全然違いますけど、『国実百合として再出発してみたい』という気持ちがわいてきました」
恩師との再会が、大きな後押しになった。
「昨年4月、私のデビュー曲から担当してくださった林哲司先生の作曲家50周年コンサートがありました。私は西村知美ちゃんに誘っていただき、ごあいさつに伺いました。
作詞を担当された売野雅勇先生もいらっしゃったので、思い切って『先生方が作ってくださった歌をもう1度、YouTubeで歌わせてください』とお願いしました。
そして、『自分の歌なんですから。歌っていいんですよ』と言っていただき、『よし、やってみよう』と決心。5月にはブログを再開し、YouTubeも見よう見まねで始めました」
https://news.yahoo.co.jp/articles/50f4a582b71fe84117229...
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