>>27 なるほど。確かにひろゆき氏の言うことには一理あるが、
しかし、教師が心の底から「純粋な理想」を子どもたちに語らなくなったとしたら、子どもはどのような人格に育ち、社会はどのような姿になるのだろうか?その視点が抜け落ちているように思われる。
日本の道徳や倫理観といった理想を子どもに伝えていくためには、ある意味「狂おしいほど純粋な思想(俗にいう“頭の中がお花畑”のような部分)」を抱く人々との触れ合いも不可欠である。
それは悪く言えば世間知らずかもしれない。だが、「社会経験がない」と切り捨てるのは一面的であり、むしろ理想を追い求める専門家であるとも言えるのだ。
そして教育の傍らで、子どもたちは日常生活の中に転がる「現実の問題」(たとえば目の前で信号を無視する大人の姿など)に直面し、それと触れ合いながら成長していく。
もし幼少期から「現実」や「不条理」ばかりを学ばせれば、理想という名の目標を見失ってしまうだろう。
ゆえに、「教師を信用しない」と単純に切り捨てるのではなく、それも一つの考え方として尊重しつつも、「現実」や「不条理」を免罪符に理想教育を放棄してしまえば、人類の目標や理想へ至る道筋は消え、文明の進化も止まってしまう。
この視点は、教師に限らず現代日本の政治家にも当てはまる。現実の利害に翻弄されるばかりで理想を語れない政治家は、社会を前に進める役割を果たすことはできないのだ。
教育には「強制」もあれば「自発」もある。ひろゆき氏は、自身がかつて教育において受けた“強制”が、現在の思想形成に大きな影響を与えていることに気づいていない。
教師は「純粋な理想の体現者」としての側面を保ちながら、子どもたちは日々の生活の中で現実に触れ、その両者を統合して人格を形成していくのだと私は考える。
逆説的に言えば、ひろゆき氏が否定している教育論こそが、実のところ彼自身の思想を形づくった土台でもあるのである。
結局のところ、ひろゆき氏が狭い範囲の思考にとどまってしまうのは、その発想の限界であり、ある意味「お子様」であると言えるのだろう
返信する