火垂るの墓のラストのビル群


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001 2025/08/16(土) 12:54:42 ID:HijtwSaf0.
昭和20年なのにラストで清太が丘の上から見ていたのは・・・現在の神戸の夜景
現代から始まり現代で終わる。つまり「清太と節子は成仏できずにずっとあの苦しみをループしている」ということか。
https://magmix.jp/post/311962#google_vignett...

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024 2025/08/22(金) 09:00:18 ID:dy7ywu732A
清太の亡霊が出てくるシーンは、冒頭とラストを除くと、「母のお骨を抱えて、居候している親戚のおばさんの家に帰るシーン」、「おばさんが米にするからと、母の形見の着物を持っていこうとするシーン」、「池のそばの横穴に避難して、おばさんの嫌味を思い出すシーン」の3つである。

なぜ必要だったのかわからない。全部おばさん絡みなのも訳が分からない。
必然性が感じられない。幽霊の清太とは、生きている野坂昭如自身である。何故なら必要に迫られて清太を殺したのが作者である野坂昭如だからだ。お母さんは、神戸空襲では死んでいない。親戚のおばさんや、おばさんの嫌味は史実にはない。史実にはないところに登場しているわけでもない。

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025 2025/08/22(金) 09:27:20 ID:dy7ywu732A
原作で清太は死んでいるが、高畑勲は、なぜか、語り手に幽霊を設定したことで、野坂昭如という作者を登場させた。それが、原作を更にメタ構造化してアニメ独自の色付けにしてはいる。しかし、別に必要だったとは思えないのだ。
幽霊清太を足したのは、作者野坂昭如を登場させるため。何故野坂昭如自身を登場させなければならなかったのか?
現代につなぐためではない。「……」と、野坂昭如氏は書きました、とすることで、話全体を寓話化したのだ。個人の贖罪、悔恨、恢復の物語としての完結を許さなかった。
個人譚から寓話化を遂げさせて、普遍へと昇華させるために、進行上は無用な清太の幽霊を挿入した。成功したとは言い難いが、高畑勲の狙いはそこだったろう。寓話化はしていると私は思う。寓話の先には、儀式化があるべきだが、秩序恢復にまで至れず口を開いたままだから、胸騒ぎを起こさせるだけに留まり、二度と見たくないアニメの烙印を押されてしまう。

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026 2025/08/22(金) 19:58:37 ID:uDJVH2.LkM
戦後80年 いま見つめ直す『火垂るの墓』
初回放送日:2025年8月22日

戦後80年の今年、スタジオジブリのアニメ映画「火垂るの墓」が再び注目を集めている。
空襲で母を亡くした14歳の少年と4歳の妹が生きる姿を描いた高畑勲監督。没後に見つかった7冊の創作ノートには緻密な空襲の描写が。その原点は9歳の時の戦争体験だった。
一方、高畑監督は「これは反戦映画ではない」と語っていた。いったいなぜ?
高畑監督と交流があった太田光さんとともに、映画が現代に投げかけるメッセージを考える

https://www.nhk.jp/p/netadori/ts/QL8GZ2L5VX/episo...

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027 2025/08/23(土) 09:30:37 ID:CflJk.ScKA
これが、「それゆけ、アンパンマン」放映開始と同じ年なんだからたまげるわ。

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