火垂るの墓のラストのビル群
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001 2025/08/16(土) 12:54:42 ID:HijtwSaf0.
015 2025/08/17(日) 12:25:51 ID:jTjiPbvgww
近親相姦的児童ポルノのタブーを押して敢えて描かれた心中ものであるならば、わざわざ霊を現代にうろつかせる必要はなかろう。彼らの成仏や煉󠄁獄などは現代人には関係ないからだし、そんなものをリスクを犯してまで表現するほど高畑勲は変態ではなかろう。
現代人との関わりを訴えたいならば、自由とセーフティネットがテーマでなければなるまい。
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016 2025/08/17(日) 17:26:40 ID:jTjiPbvgww
史実では妹は自身も養子である野坂昭如の養家の血の繋がらない養女で、亡くなっのは一歳半。心中のしの字もない。原作はアニメと同じ創作設定だが、亡霊視点や心中要素などもちろんなく、岡田斗司夫解釈は高畑勲アニメの牽強付会の深読みでしかない。高畑勲は、心中を描きたくてアニメ化したとは到底思えない。あくまでも自由を履き違えた現代子の心性を戦時中にタイムリープさせる仕掛けを意識していだけだから、清太の眼差しが現代の神戸に注がれているのは、現代への警鐘や、諷刺の意味で時代を交差させるためだ。
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017 2025/08/18(月) 11:49:04 ID:ga9OZWKMtc
018 2025/08/18(月) 12:00:46 ID:NRVYWl9hVo
>>14 このくだらない考察を見るためにカネを払う馬鹿どもの存在が信じられん。
清太=大日本帝国のアナロジーだよ。国連脱退を選び、無謀にもアメリカに宣戦布告して大切な命を守ることができなかった大日本帝国そのものだから、毎年、8月になると贖罪の儀式を延々と繰り返し催行するのさ。
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019 2025/08/18(月) 12:26:00 ID:NRVYWl9hVo
022 2025/08/18(月) 20:25:12 ID:NRVYWl9hVo
破れ傘だから、心中物だ、道行だ、などと解釈するものがいる。野坂昭如が、火垂るの墓を心中、道行なのだと衒った事をのたまったから、高畑勲が、気を利かせて原作者の諧謔的自己韜晦に乗ってみせたのは確かだろうし、節子が、頼りない清太に母親っぽく振る舞うところが、泣かせるポイントでもあるのだが、これは全てフィクションによる心理補償行為部分に過ぎず、物語全体のテーマ足りえはしない。
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023 2025/08/19(火) 11:06:42 ID:Naheo6F.rg
火垂るの墓にエロティシズムが漂うという批評も的外れだ。
野坂昭如が、同作を心中物、道行だと述べたのは、照れ隠しであり、本心は、清太は、妹の供養に捧げた、花婿人形というものであろう。靖国神社遊就館の花嫁人形にエロティシズムを感じるものは、ばかである。
高畑勲は、その意を汲んだから、清太花婿人形をえんじさせたし、節子に、妻や母を演じさせて応答させたのだ。それに気づいた清太の涙は、自らの不甲斐なさを恥じる涙ではなく、妻や母になれた妹を見れた感涙なのだと思われる。
然しながら、これらが主題ではない。それでは、単なる個人的な贖罪の物語になってしまう。高畑勲は、原作を突き抜け、個人的な悔恨と自罰、贖罪の物語からはるか高みへ飛躍させた。これを受け取れるかどうかが、問われている作品なのだな。
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024 2025/08/22(金) 09:00:18 ID:dy7ywu732A
清太の亡霊が出てくるシーンは、冒頭とラストを除くと、「母のお骨を抱えて、居候している親戚のおばさんの家に帰るシーン」、「おばさんが米にするからと、母の形見の着物を持っていこうとするシーン」、「池のそばの横穴に避難して、おばさんの嫌味を思い出すシーン」の3つである。
なぜ必要だったのかわからない。全部おばさん絡みなのも訳が分からない。
必然性が感じられない。幽霊の清太とは、生きている野坂昭如自身である。何故なら必要に迫られて清太を殺したのが作者である野坂昭如だからだ。お母さんは、神戸空襲では死んでいない。親戚のおばさんや、おばさんの嫌味は史実にはない。史実にはないところに登場しているわけでもない。
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025 2025/08/22(金) 09:27:20 ID:dy7ywu732A
原作で清太は死んでいるが、高畑勲は、なぜか、語り手に幽霊を設定したことで、野坂昭如という作者を登場させた。それが、原作を更にメタ構造化してアニメ独自の色付けにしてはいる。しかし、別に必要だったとは思えないのだ。
幽霊清太を足したのは、作者野坂昭如を登場させるため。何故野坂昭如自身を登場させなければならなかったのか?
現代につなぐためではない。「……」と、野坂昭如氏は書きました、とすることで、話全体を寓話化したのだ。個人の贖罪、悔恨、恢復の物語としての完結を許さなかった。
個人譚から寓話化を遂げさせて、普遍へと昇華させるために、進行上は無用な清太の幽霊を挿入した。成功したとは言い難いが、高畑勲の狙いはそこだったろう。寓話化はしていると私は思う。寓話の先には、儀式化があるべきだが、秩序恢復にまで至れず口を開いたままだから、胸騒ぎを起こさせるだけに留まり、二度と見たくないアニメの烙印を押されてしまう。
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